MATO PARENTS JOURNAL
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WHITE
ようこそ2025年。サンタを信じる娘がくれたもの
Satomi Nakazawa
わたしは、当時20歳くらい、まだなりたい職業も見つけられていないでいた頃に、
『「おばあちゃん笑っているみたい」と言われるような顔で最期を迎えたい』ということをふと思った。
そのことが今日に至るまで、就職したときも転職のときも独立のときも、
仕事中になにかの選択をする場面も、パートナーとの付き合い別れのときも、
いろんな場面で選択の指針となってきた。
『この選択をして、おばあちゃんになったときにお茶目に笑えるか?
笑っているみたいな顔で最期を迎えられるか?』
それが自分のなかで大事な判断基準だった。
今日、久しぶりにそのことを指針にした。
夕飯の時、言いたくなった一言を飲み込んだ日だった。
農家な我が家は就寝も早く、通常であれば20時には大人も子どもも(わたし以外)就寝モードだ。
今夜は、この春から働いてくれることになった新卒の青年くんが
新居のボイラー修理中のためにもらい風呂&夕飯を食べに来ていて、少し就寝がゆっくりだった。
そんな21時すぎ。皆が寝室に上がったあと、一人仏壇の前の座布団に正座をしてみた。
そして週末にちょうど七回忌と百箇日の法要をそれぞれ終えた夫の祖父母の写真を見て、自分に聞いてみた。
『今日、家族に言いたくなったあの一言を言ってあなたは「笑っているみたい」と
言ってもらえるような顔で最期を迎えられるのか』、と。
NOだった。笑えない自分が想像できた。
三世代で暮らすということは、
単純なことだけれど、ひとつの家のなかで一緒に暮らす家族が多いということで、
人数の分だけ、違和感を持つ機会ももたらされるし、自分が想像もできなかった楽しさや安心感をもたらしてもらえる。
子どもの頃から外遊びは好きでも自宅に友達が遊びにくることが苦手だと思っていたわたしにとって、
いま、自宅であって本家である我が家に、節目節目にわりと多くの身内が訪問したり
宿泊していくことが本当のところはまだなんだか苦手で、
それでも、やっぱり思うのだ。
いまわたしが立っている場所は、
『「おばあちゃん笑っているみたい」と言われるような顔で最期を迎えたい』
と思った20歳の頃のわたしがそれを指針に目指してきた未来だ、と。
ちゃんとその道の上にいる。
結婚を機に出会えた甥っ子姪っ子の成長にしみじみとするし、
親戚のおじいちゃんおばあちゃん世代の皆さんとの言葉やおすそわけのやりとりは気持ちが温かくなる。
こちらは昨春のある日玄関先に置いてあった親戚からの山菜のおすそわけ。
同世代の兄弟姉妹・いとこたちは、節目節目に会いながら、
きっと、信頼だったり関係というものを築いていく。それには時間が必要なのかもしれない。
年数を重ねて、喜びごとも悲しみごとも、問題も、楽しい思い出も共有しながら、関係を強くしていくのだと思う。
そうして、同じ時代を生きていく。おじいちゃんおばあちゃんになるまで。
この先に待っている未来がどんなものか、
30代のわたしには目の前の子育て・家事・仕事でいっぱいでまだまだ想像もできないし、
いま出会っていない存在もこれからまだまだ登場することでしょう。
今年のお正月に思ったことがあって、
「好きとか苦手とかではなく、務めだと思おう。」
そしたら、苦手と思う自分に、悲しい気持ちを持つこともないんじゃないか、と。
これまで十分、好きかそうじゃないか・心躍るか踊らないかを自分に聞いて、
それに正直に生きてきたと思うから、違う視点を持ってみるのもいい頃合いなのかもしれない。
感情にお任せしすぎない方が自分を楽にしてあげられるときもあるような気がする。
そんなことを、
まだまだ雪の残る白い景色に眩しくピカッと晴れたり、
(雪解け水でどろんこの石橋の上を突進していく娘…!)
大粒の雪がはたはたと降ってみたりと、
(上の写真とほぼ同じ場所、雪でもふもふの石橋の上で夫と娘)
揺らぎながらだんだんと春に向かっていることを感じる春分の頃からの一週間で、思ったのでした。
*
MATO by MARLMARLさんが
ちょうどよい時期に、ちょうどぴったりなコピーで提案してくれている。
「心持ちも、新しいスタンダードに更新してみませんか?」
機がきたと感じた時に新しいスタンダードを取り入れられる、やわらかな自分がいいな。
Satomi Nakazawa
Satomi Nakazawa
Satomi Nakazawa
Satomi Nakazawa